人生を変えてしまった事故

病気や障害を抱えながら生活している人の手記や闘病記などを、むさぼるように読むようになって、半年が経とうとしています。

やり甲斐のある仕事で能力を認められ、昇進。人生の絶頂期にあった10日後に事故に遭い、足が不自由になってからのことです。

昇進した喜びから、手足の機能を失うというどん底にたたき落とされた時は、自殺さえ考えました。

身体中の筋肉が硬直し、激痛が続くなか、「今日が無理なら、明日死のう。」と泣きながら考えたものです。

ある日、強い鎮痛剤ですら効かない激痛に耐えかねて、ベランダに飛び出しました。死ねば、痛みが終わるだろうと、飛び下り自殺をしようとしたのです。

ずるずるとベランダの手すりに身体を擦り付けて、いざ飛び下りようとした時。マンションに真下にある花壇が目に入りました。

手入れの行き届いた綺麗な花壇でした。真下に飛び下りたら、綺麗な花壇を汚すことになると思った瞬間、「生きたい」という本能が湧きあがってきました。

あんなに死にたいと思っていたのに、急に生に対する執着心が吹き出したようでした。「わずか28歳で死ぬものか!」とベランダからはい出て、鎮痛剤を取りにいきました。

生きたいという執着心が出て来てからです。他の人はどうやって痛みに耐えているのだろう?死にたくなるぐらいの激痛の時に、どうやって前向きに闘病しているのだろう?先人たちの歩んできた道を知りたくて、闘病記や手記を集めるようになりました。

闘病記を読んでいくと、生きる意味や人生について考えてさせられます。死の淵で書いた詩集や、ガンの苦しみに耐える闘病記録は、暗くネガティブなものに思われがちです。

しかし、どの手記も、どこかエネルギッシュで生きようとする力を強く感じます。死や痛みは、今まで気がつかなかったものを気がつかせるものです。

仕事しか頭になかった日々では、向き合おうとしなかった「素の自分」と対峙するようです。どの手記も、生きるか死ぬかの切羽詰まった状況でしか、湧きあがってこない凄まじいエネルギーがあります。

しかし、そのエネルギーのなかに、繊細な感受性を感じるのです。内科の医者だった井村和清氏の「再発」と遺稿集があります。

ガンの転移がわかり、アパートの駐車場に車をとめた時。世の中が輝いてみえると遺しているのです。「犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが美しく輝いてみえるのです」情景が目に浮かぶような文章に、穏やかな感動をおぼえました。

病や障害は、感受性を目覚めさせてくれるのでしょう。元気な時は気にもとめなかったありふれた日常からも、温かい感動を覚えます。その意味では、私から全てを奪った事故に感謝しなくてはいけないかもしれません。